「よろしかったでしょうか」でよろしいでしょうか?

 メシ食いながらなんとなくテレビ見てたら、NHKで「ニラレバとレバニラ、国民の総意としてどちらを支持するか!」とか多数決とってて吹いた。
 そのくだらなさに惹かれてしばらく見てたら、「よろしかったでしょうか?」を日本語として認めるかどうかと言う話になった。
 僕は以前から、この「よろしかったでしょうか?」にあまり違和感を感じていない派の人間でした。
 うーん、なんというかうまく言えないんだけど、別にそれでもいいんじゃねーのってのが第一で。例え間違いだったとしても、顔真っ赤にして否定するほどのことじゃないだろうし。まずここで世間との温度差。
 あとはこう、文法としては正しくないのかもしれないけど、この言い方の方が接客用語としては間違っていない気がするというか。
 「なんとなく」とか「気がする」とか、文章書く仕事している割には、文法がどうこうとかのきちんとした理由立てで擁護できないのが、情けない感じですね。


 それはさておき、その番組(『みんなでニホンGO!』というらしい)的にどういう扱いになっていたかというと、こんな感じでした。
 世間的に「よろしかったでしょうか?」は非常に嫌われていて、番組にも「是非糾弾して欲しい」と言う旨の投書が来ていました。新聞や雑誌などで「乱れていく日本語、感じる違和感」として取り上げられているのが紹介され、スタジオ内の100人ほどの年齢性別バラバラのみなさんのアンケートでも、90パーセント以上の割合が「よろしかったでしょうか?」に不支持を表明。
 しかしそのあとのVTRで、「いや、実は日本語としては間違っていないんですよ」と専門家が答え、「そもそも日本語では、過ぎていないことを過ぎているように曖昧に言い、カドが立たなくするという表現方があるのです」と説明。
 「もう寝れば?」→「もう寝たら?」とか「ならいいわ」→「ならよかったわ」とか。青森の方言を引き合いに出したりとか、かわいいさかなやさんの歌詞を引用して説明したりしてました。
 また、日本全国どこの地方でも「よろしかったでしょうか?」は広がっているけど、東京一円のみ「お客様からクレームが出るので、文法として正しいか正しくないかは置いておいて使わないように教育しています」と指導が進んでいるとの紹介も。
 最終的にはもう一度スタジオで決を取り、「よろしかったでしょうか?」の支持者は3割以上に増えたものの、多数決の結果を取って「よろしかったでしょうか? は日本語として認定しないことにします!」という形で番組は幕を閉じました。


 番組の構成とか結論とかはとりあえず置いておいて、長年の疑問について専門家から「それ別に日本語としておかしくないよ」って言葉が聞けたのは、ちょっとうれしかったです。「よろしかったでしょうか?」に違和感を感じていないことに対して世間との違和感を感じていたんですが、どうも感じなくても良い違和感だったみたいですね。
 それにしても、「だって日本語として間違ってるじゃん、なんで過去形で話すんだよww」と言っていた人々が、日本語として間違っていないことを示されたときに、「でもやっぱりその言い方が癪にさわるケースが多い」とか「心がこもってない感じがするんだよ」とか、微妙に感情論っぽい方向にシフトしていたのは、うーんなんだかなあと思いましたよ。もっと素直に「へえ、勉強になったなあ」で良いんじゃないのかなあ。
 あとこれは非常に個人的な感覚なんだけど、「よろしいですか?」とか「よろしいでしょうか?」って接客のときに口にする・口にされると、なんとなく杓子定規な感じがして、ちょっともにょるんですよね。
 言葉としての正しさだけじゃなくて、言われたときのカドの立たなさとかも大事なんじゃないかなあ。って、この違和感自体が必要のない違和感なのかな? 「よろしかったでしょうか?」が気になっていた人たちと同じように。


 まああれですね。みんなが正しいと信じ込んで「そうじゃねーよ、だって間違ってるじゃねーかよ」って押し通した結果、自主規制でそのもの自体がなくなっていくなんてのは、やめた方が良いですね。渾沌の話しかり。
 なんとなくNHKでやってた番組で見聞きして、それをおぼろげな記憶に頼って文章にまとめなおしてみたこんな知識も、あってるか間違ってるか微妙だったりもするわけで。これを機に鬼の首を取ったみたいに「やっぱり自分が正しかったんだワーイ!」とかやるのも同じような話ですし。
 とりあえず、みんな持論を振りかざしすぎなきゃいいんじゃないのかな。正しいも間違ってるも何も、あちらこちらで「よろしかったでしょうかとか言ってるんじゃねーよ」とか文句つけてる人がいる世の中は、ちょっとギスギスしてると思います。