(笑)

 笑いは偉大だ。本当に偉大だ。
 どんなに辛くても、大概のことは笑えばその瞬間忘れることができるし、大体辛いときってのは、なんだかんだで笑う余力ぐらいは残っているもんだ。
 死にそうになったって、自嘲気味に笑ったり、幸せそうににっこり笑ったり、爆笑したり、そのときそのときのシチュエーションにあわせて人はまだ、笑うことができる。
 死と生は表裏一体どころか同じようなものだけれど、その生の部分を代表して抽出しているのが笑いだ。笑うことは生命の爆発でもある。しかもその笑いには、常に死の魅力も付きまとっている。その上『笑顔』と言うのは動物の本能的には威嚇行為に近いというんだから、ここでもまた笑ってしまう。


 これだけ人間の生命的な部分に大きく根付いていつつ、非常に根源的な感情で、日常生活に常につきまとうもの。その上、『あるシチュエーションの破壊によっておかしみを生む』という、非常に芸術的な行為でもある、笑い。こんなに偉大かつ評価の低い存在もないと思う。
 僕は芸人に対して常に一歩身を引いている部分がある。芸人さんは笑いを作り出す仕事をしている。日々、どうすれば面白いのか、どうすれば人が笑ってくれるのか、それに考えを寄せている人なんていうのは、僕からしたら求道者や聖人みたいなもんだ。芸人さんも、笑いと同じく偉大な存在だと思う。
 僕は笑いが好きだ。そして生や死について考えるのも好きだ。僕はいまは詩を書いて暮らしているけれど、それは笑いの方向性が芸術や文学の方向にぶれすぎてしまった結果なんだと思う。僕の詩では、笑っている人や死を感じている人の描写が良く出てくる。いつのまにか笑いが止まらなくなったり、涙を流しながら笑う君がいたり、笑いは詩の中にもシチュエーションとして多く登場する。
 だって、笑いって言うのはとても芸術的なことだと思うから。繰り返しになりますけど、『あるシチュエーションの破壊によっておかしみを生む』なんていうのは、まさに芸術の根源ですよ。それを何の道具も持たずにその場の思いつきと勢いでやってしまう人がいるかと思えば、しっかりネタを仕込んでまとめて放出する人もいる。そのどちらが優れているとか劣っているとか言うつもりはない。だって、どれも笑わされてしまえば負けなんだもの。
 そして、笑ってしまえば笑いの勝ち。芸人の勝ちなのではなくて、笑いが起きることでそこに颯爽と現れる勝者は、笑いそのものなのです。それほど遠くて手の届かない存在、それこそが笑いであって、これ以上偉大な存在もないでしょう。しかもいつも身近に存在しているだなんて。手が届かないのか隣にいるのかどっちなんだよ。って、両方なんですよねこれが。
 とか小難しいことをこねくり回さなくても、笑いは偉大です。だって面白いんだもの。


 このカテゴリは、僕が常に頭の隅で意識している偉大な存在、笑いについて掘り下げていくカテゴリです。笑いのことについて書いているけど笑わせるつもりはあまりないから期待するなよ! ぷぷぷー(←こんなくだらないものでも、笑いの一端なんですよね。笑いは懐が深い)。
 芸人さんとかネタとか笑いそのものについて書いていくと思いますが、だいぶ僕の色眼鏡が入ると思うのでその辺はご容赦ください。一石楠耳の好きな笑いって言うのはこういうものなんだとか、一石の詩にはこういう笑いのテイストが染み付いているんだなって言うのを認識する手助けになってくれれば幸いです。次回から本格的に行っきまっすよー。