笑いの死

 赤塚不二夫さんがお亡くなりになりました。弔辞を読んだのは、タモリです。
 僕は正直、赤塚不二夫の漫画を読んだことがありません。それでお笑いについて何を語れるものかと思い、何度も手を出そうとしましたが、なぜか機会がうまく取れないまま、しかし僕は赤塚不二夫の影響を受けてきたさまざまな笑いに触れて生きてきました。
 僕はタモリが好きです。この人は、芸がないのに芸人であり、ネタがあるようでないような、しかし確固としたお笑いの代表人であると思います。
 おそらくテレビをご覧の方は、タモリの弔辞を放送で見る機会があったことでしょう。何度もその映像、ニュース、これらは映像媒体でも新聞でもさまざまなところで流布されて、多くの人が見聞きしたことでしょう。
 しかし、この弔辞のなんと素晴らしいことか。
 お笑いに携わる人の死は、切ないことです。笑って欲しくて生きてきた人間が、死によって多くの人を悲しませるのです。これは悲劇です。非常に、悲しく、切ないことです。
 そしてそんな笑いの死に立ち会わされた、生きている笑いは、死を前にして笑いを持ち込むことが出来ない。
 そんな中タモリは、見事に自らの恩人に完璧な弔辞を読み上げ、そして自分の今の状況を自嘲し、赤塚不二夫の心を読み取りつつ、笑いとはどういうものであるかを、非常に分析的かつ簡潔に表現して広く世に訴えたのです。
 もちろんタモリ自身は、その言葉は赤塚不二夫だけに向けたものだったのでしょうが、傍らにいる人、赤塚不二夫のファン、そしてひとりのお笑い好きである僕の心も強く打ちました。
 僕は、もう、これ以上に笑いの偉大さを伝える言葉を生み出せないんじゃないだろうか。そう思うぐらいにすさまじい弔辞でした。普段は飄々としているタモリは、やっぱりタモリだった。なんて造詣の深い言葉を言うんだろう。
 僕は号泣してしまいました。この言葉を文章で読み、映像で確認し、涙が止まらないです。赤塚不二夫が死んでしまったことが悲しくて号泣しているのではないんです。この弔辞のあまりの見事さと、その言葉のひとつひとつにやられてしまったのです。
 文章や言葉にまつわる人間として、自分がいつでも読み返せるように、僕はこの弔辞をここに転載します。そして、笑いのこと、言葉のこと、人生のこと、さまざまなことを考えるときに、また読み返そうと思います。
 僕は赤塚不二夫のような人になりたいと、本当に思いました。こんなに笑いの偉大さを引き出した人間はそういないでしょう。なんて、素敵な人生なんだろう。
 それでは、以下、長文になりますが、タモリ赤塚不二夫の葬儀で読んだ、弔辞です。


 8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに、本当に残念です。われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、私達世代に強烈に受け入れられました。

 10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは、今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私をみている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。

 終わって私のとこにやってきたあなたは『君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから、私のマンションにいろ』と、こういいました。自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが始まりました。

 しばらくは毎日新宿のひとみ寿司というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタをつくりながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、未だに私に金言として心の中に残っています。そして、仕事に活かしております。

 赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところをみたことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。

 あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔ははるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀のときに、大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺のときたこちゃんの額をピシャリと叩いては『このやろう逝きやがった』とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。

 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。

 いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い出されています。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外でのあの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山送り火です。あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、 一生忘れることができません。

 あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。

 私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。平成20年8月7日、森田一義