エヴァンゲリオン新劇場版:破は食べがいがある

 かつてあさりよしとおは、「自分が関わっている作品で手前味噌ながら、エヴァンゲリオンは昨今珍しい味わえる作品だ」といったようなことを書いていましたね。
 新劇場版も、噛み締めて味わえる作品です。
 エヴァンゲリオンに興味がない人に、僕はエヴァンゲリオン新劇場版:破を勧める気は毛頭ありません。しかし、エヴァンゲリオンを見ていた人。新劇場版・序を見た人。前シリーズが好きで、その世界観を壊されたくない人。他の人から内容を伝聞して、「それなら観に行かなくてもいいや」と思っている人。
 そういう人は、是非劇場に足を運び、エヴァンゲリオン:破を観ることをお勧めします。面白いと絶賛するか、これは違うと唾棄するか、無感動のまま劇場を出るか、次の劇場版に思いをはせるか。いずれにしてもこの映画は非常に味わいがいのある、噛み応えのある映画です。
 劇場に足を運び、金を払って2時間を過ごすだけの価値がある。それだけの感想を抱かせる映画です。まさに、映画です。
 劇場で観なければこの感覚は実感できないでしょう。どんな感想を持つかは人それぞれでも、必ず感想を抱く、退屈しない映画です。
 どうぞご覧になってきてください。では以下、映画を観てきた人だけにお送りする、僕の考察込みの感想です。
 エヴァオタの話は長いから注意しな。


 今回の破は、破の名に相応しくいくつかのストーリー破壊が行われていました。
 その中でもインパクトが強かったのは、クラシックに代わる昭和歌謡曲の流用。冒頭のマリの365歩のマーチを歌いながらの使途殲滅に始まり、何気ないBGMとしても使用され、重要なシーンでは気持ち悪いほどにうまい具合に使用される。「いーつまでもーたえるーことなくー とーもだちでーいようー」って流れてきたときには見事すぎて吐きそうになりました。
 そして、見終わってからしばらくして気づいたんですが、そもそもこの映画のストーリーの根幹を最初に提示していたのが、冒頭の365歩のマーチだったんですね。「しあわっせはー あーるいてこーないー だーからあーるいーていーくんだねー」これこそが、この映画のテーマであって、マリと言う新キャラクターのテーマでもあったと。
 マリが関わることで加持とアスカの立ち位置が変わり、それがレイの心境変化にも及び、学校の屋上でシンジとマリがぶつかることでDATの曲のナンバーがループから27トラック目に移行。更には加持によるシンジの説得「自分で考え、自分で決めろ。君がいま、何をするべきかを」に成り代わり、向かうところ敵なしの精神を持つマリから提示される「早く逃げなよ」。
 こうした経緯から、シンジは最終的に「綾波を返せ!」に繋がり、「レイに代わりはいないんだ」に繋がっていくわけですね。今まではあくまで後ろ向きが前提だったストーリーと、必ずどこかに悲壮感を持っていたキャラクターたち。だけどマリは違う。常に折れない精神性、アスカやミサトのように無理をしてがんばっている感じでもない。そんな彼女が話に関わることで、碇シンジの物語は大きく変わってしまったのか。
 この展開に関して、特に賛否両論が出ているようですが、僕はこの展開も嫌いではありません。精神性としては以前のエヴァンゲリオンのような話が好きではありますが、それを踏まえたうえで観劇しているので、むしろここでまた同じことの繰り返しをネチネチとやられるよりは、新たな境地を切り開くという点では悪くない展開だと思います。
 何しろ燃えましたしね。「代わりがいるからそれでいい」で認識されていたことを、「違う、それは代わりじゃダメなんだ」と断じる展開。これはあきらめの境地の中でひとつの小さな成功を導き出して「おめでとう」と拍手をされていた前作と比べると、救いがある反面、非常に残酷な展開でもあります。
 かつては14歳の少年の物語をテレビで見ていた君たちになら、あの結論でも良かったかもしれないが、今の君たちはそこから多少でも進めているか。進む気はあったのか。そんな、エヴァにはなかった説教臭さを感じ取りました。
 翼をくださいが流れていたのもそのイメージに拍車をかけるきっかけだったのかなあ。


 しかし、しかしですよ。
 加持とアスカの関係が以前のようではなくなり(アスカが加持にラブラブなそぶりを見せることがないどころか、おそらく劇中一度も会話をしていない。初対面である可能性すらある)、シンジやトウジたちと出会うエピソードが削られたために差し込まれた、海洋生物研究所での社会見学のシーン。これをきっかけにして、以前のエヴァンゲリオンでは見過ごされがちだった食事のシーンがクローズアップされ、レイとシンジの関係性が俄然一歩前に進むようになる。
 それに呼応するようにアスカとシンジの距離も一気に縮み、シンジはレイからもアスカからも少なからず好意(とまでは行かないか、意識?)を多く向けられるようになる。アスカに到ってはシンジやゲンドウとの食事会を楽しみにしているレイに気遣いをして3号機の起動実験に志願し、ミサトに心中を吐露するところまで行ってしまう。
 レイが感情を表に出しすぎているのも気になるが、アスカも同じく感情を前に出しすぎている。加持というキーパーソンがアスカに関わりを持たなくなったことで、アスカのストーリーが一歩早く進行してしまっているのだろうか。
 いずれにしろシンジはレイとアスカのそれぞれに意識を向けられ、最終的には使途に取り込まれたレイを引きずり出すところまで行ってしまう。旧劇場版での覚醒したEVAによる人類補完計画のようなもので、EVAによって、使途に取り込まれた人間をサルベージしてしまうのだ。
 この辺りが「まさに無敵のシンジ様だ」と揶揄される部分であって、今回の劇場版について納得いかない感想を抱いている人たちの一番の不満点だろうと思うのです。
 もちろんアスカの冷遇振りに関しても、気になるところではありますけどね。
 この辺りに関しては、ボタンのかけ違いによって起きるifのストーリーとして許せる範囲内なのかどうか微妙なところで、いくらでも考察は出来るとは思いますが……シンジがレイをサルベージした瞬間にカヲルが槍を刺してきたことといい、カヲルの「今度こそ君だけでも幸せにしてみせるよ」のセリフといい、序におけるゲンドウの「次はレイをもっと近づけさせる」のセリフといい、まだまだこの先にネタバラシが待ち構えている可能性があるので、あまり深く考えても仕方ないのかなと思っています。
 「みんなが感じてる違和感はこういうことなのでしたー」というちゃぶ台返しが待ち構えているかもしれないので、あまりこういった差異の奇妙さにとらわれてガッカリしていても、仕方がないんじゃないかなと。それよりは、この映画のエンターテイメントたる部分を楽しんでおくのが正解かなと思います。
 落っこちてくる使徒との戦いはお金のかかったアニメで見れる最高のアクションシーンだったじゃないですか。ああいうのを劇場で観れる喜びを噛み締めたり、それが自分がかつて好きだったエヴァンゲリオンという作品でなされていることを楽しんだりするのが、現時点での一番オーソドックスな破の楽しみ方なのではないかなと僕は思うのです。


 なんて言いつつも、もちろん一エヴァオタとしては、気になる部分はとにもかくにもその意味を考え抜こうとしちゃうんですけどね。
 だってそれこそがエヴァンゲリオンの醍醐味ですからね。だからこそ僕はエヴァンゲリオンだけはリアルタイムで体感しておくことに決めています。そして、そこから派生するさまざまな情報や憶測の中で過ごす、その現象のようなものこそがエヴァンゲリオンの本質だと思っているんです。
 さてでは僕が一番気になっている部分はどこかというと、キャラクターの立ち位置です。物語、特にこのエヴァンゲリオンという作品においては、キャラクターの存在する意味や物語上での必要な役割がはっきりと定められています。それが魅力のひとつでもあるのですが。
 しかし今回の破では、アスカと加持がその役割をレイやマリに食われてしまっていて、本来必要であったはずの役割をこなせていません。
 しかも破を象徴するキャラであるマリ自身も、その立ち位置があやふやなまま。エンターテイメントとしては面白く見れる破ですが、キャラクターの存在意義としては破綻しかかっている部分があるのです。
 これらにはきっと今後解が示されるのではと期待しているのですが、どうにも気にかかる部分ではあります。
 前作ではレイは母となり、アスカは女としてシンジと共に傷つけあいながらも生き残る選択で終結した。だが今回は女としての役割をレイに預け、アスカは退場してしまう。
 予告編では眼帯をしたアスカの姿が見れました。旧劇場版でのラストでの目に包帯を巻いたアスカは、最初に出会ったレイの姿を重ねた姿だという話を聞きましたが、今回の眼帯もそれにあたるものなのでしょうか。
 そしてシンジとレイの心が重なるのを止めに来たように思えるカヲルの行動。本当にこのまま、シンジはレイと共に生きていくエンディングに向かって行くことになるのでしょうか。
 エンディングの次回予告で、加持が例の射殺を受けた場所と思しき場所で、抵抗の様子を見せているシーンが流れていました。マリの介入によって壊れたストーリーで、破ではあまり役割が回ってこなかったアスカと加持は、ひょっとすると次回作のQで、新たな役割をこなすことになるのかもしれません。レイと共にサードインパクトを起こそうとするシンジに外部から関わるアスカ、殺されることなく活動を続けることになる加持、など。
 かつて「加持は誰に殺されたのか。あえて言うならそれはシンジだ。なぜならシンジの物語に、もう加持は必要なくなったからだ」と言った友人がいました。見事だと思います。そしてその論法に従うなら、今回のアスカは役割を終えたから途中退場になったわけで、Qで必要ならば加持やアスカやマリはもっと重要な役割としてシンジの物語に関わってくるはずなのです。
 狂言回し的立場のカヲルが、いつになく神妙な表情で決意を語るラストシーンも気になります。カヲルの言う「今度こそ」「君だけでも」とはどういうことなのか。カヲルやゼーレは何をどこまで知っていて、この世界の中での何を担う存在なのか。
 ああ一体どうなるんだろう。アレコレ予測しながら楽しみに待つ次回作・Q。Qには『胎動』と言うようなサブタイトルが備わっていましたが、きっと今以上に混乱を招かせるQ(問い)が投げかけられるんだろうなあ。
 どんな形でのQが投げかけられても、Aを準備できるような自分でいるために、次回作までの間もう少し躍らされていることにします。


 碇+波−淀=破。
 破とは碇と波のお話だとしても、今回アスカの名前が変わったしマリもいるので、波がつくキャラが俄然多いのでどの波とどの碇で破がなされたのかどうかは良くわかりません。
 僕が大好きなディラックの海の中での電車のシーンとかが無くなっててアクションシーンがクローズアップされてるのとかサービスシーン満載なのとかは、淀みが取り除かれてるってことなのかもしれないね。