日常に潜む論理的命題

 真実とは一体なんだろうか。
 昨今、脚を広範にわたって覆いつつ、その足元の肌だけが一部露出した、レギンスやトレンカというファッションが流行。世に溢れるタイツフェチの諸兄はこの状況を憂いているという。
 タイツに覆われた美しい脚と思っていたものが、その足元でごく一部肌を露出しているだけで、タイツフェチの男性諸兄は激しくがっかりするのだそうだ。
 その怒りは既に観念的な部分にまで及び、例えその足元がブーツなどで完全に隠れており、全く姿を見せることがなかったとしても、タイツでなければ許せないのだという。見えない部分であり、今後見ることもないところであったとしても、その部分がタイツに覆われていないのは許せないというのだ。
 許せないのだ。
 間違えた、伝聞調だった。許せないというのだ。
 だがしかし、ここで考え方を変えてはどうだろう。それがタイツではないと認識した途端にがっかりするということは、がっかりする前まではそれがタイツではないかと思い巡らせ、真実を確認しようとした末にそうした事態に陥るのだろう。
 ならば、確認をしなければ良いのだ。確認をしないまま見過ごしてしまうことによって、そこには無限大の可能性が広がるだろう。
 タイツが好きなのであれば、はたしてそれがレギンスやトレンカや果てはニーソックスやガーターなどであるという可能性も内包したまま、最終確認を行わなければ良い。こうすることで、そこにはあなたの望む真実が現れる。
 全ての物事は、観測者が観測を行うまでは、不確定なのだから。あなたが確認をしないことによって、そこの女性の脚はトレンカなのかレギンスなのかタイツなのか、観測を行うまではいつまでも不確定なままなのだ。つまりあなたが観測を行う前のその状況は、タイツであると同時にレギンスであり、トレンカであるとも言える。
 この事実に気づいたエルヴィーン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガーは、これを量子論におけるひとつのパラドックス的思考実験として提唱し、世に広く認められ そろそろ誰かに怒られそうだからこの辺でこの芸風やめます。