Twitterをやっていて恐ろしく感じたこと

 自分にとってのTwitterは、完全にネットウォッチ用のツールになりました。
 気になる有名人のつぶやきと、BOTの面白いつぶやきと、各サイトで話題になっているニュースなどの報告つぶやきで、大半が占められています。
 そんな偏りのあるTwitter使いをしているわたしが、Twitterで恐ろしく感じたことを、いくつか書いてみたいと思います。


●予測されていた恐怖
 これは非常にごく当たり前のことで、やる前からわかりきっていたことなのですが、実に物凄くたくさんの人が、なんら意味のない発言をつぶやいています。
 『つぶやき』なんていうものは本来そんなものなのでしょうが、しかしTwitterが言っている『つぶやき』というのは、本来の生活における『つぶやき』とは、大きく違うものです。
 自分のつぶやきを読んでいるフォロワーがいて、自分がつぶやくことで、そのつぶやきがフォロワー全員にひとつの情報として伝わる。このつぶやきは、フォロワーでない人間だって、その人のアカウントをチェックしていれば聞くことが出来てしまう。場合によってはリツイートで、自分も知らないどこかでその発言が引用されてしまうこともある。
 こうした状況の中で、PCなり携帯なりを操作して、積極的にネットを通じて皆さんつぶやいています。
 これは全然『つぶやき』なんかじゃありません。短い文章なので『つぶやき』と便宜的に言っているけれど、こんなに強い力を持った『つぶやき』なんて、実生活ではありえない。
 この『つぶやき』の強さは、良い方向にも悪い方向にも転がるでしょう。Twitterを絶賛している人たちが良い方向ばかりを見ていて、悪い方向に目を向けない傾向が強いと言うのも気になるところですが、わたしが恐れているのは、そういう危険さとかではありません。
 これだけ能動的なツールを、自分から望んでアカウントを作ってフォロワーを増やして……と手続きまで踏んで利用しているのにもかかわらず、結局やっていることが日常生活のつぶやきと変わらない。そういう人がとんでもなく多いと言うこの現状に、今更ながら恐れをなしています。
 「あらゆるものはいずれ死んで、何も後には残らない」とか、「食品が出来上がるまでの行程」とか、周知の事実ではあるけれども目を向けずに過ごしている嫌なことみたいなのってありますよね。それをまざまざと見せつけられているような感じです。
 もちろん、140文字の中でものすっごく面白いことや内容の詰まったことを定期的につぶやいているような人も数多くいますが、比率で見てしまえば本当にごくごく少数です。一握りにも満たないのではないでしょうか。
 それ以外は、無数の積極的無意味つぶやきの山です。それが日々積み重ねられています。そしてこの発言をしている人たち全員に、それぞれの社会があるわけです。


伊集院光
 あるとき、伊集院光のアカウントに対して、あるフォロワーが「レッドカーペットは嫌いじゃないんですか? ラジオでエンタの神様が嫌いって言ってたからレッドカーペットも嫌いなのかと思ってた」というような発言を行ないました。
 これに対して伊集院光は、「レッドカーペットは見てますよ。ていうかエンタとは全然違うものですよね?」と返していました。
 エンタの神様とレッドカーペットは、お笑い番組としてはまったく別のものです。ネタ番組と言うくくりでは同じような番組に見えてしまうのかもしれませんが、本質的に全く違った番組作りを行なっています。誤解を恐れずあえて書くならば、レッドカーペットは『芸人を大事にする面白いネタ番組』で、エンタの神様は『芸人を食い物にするダメなネタ番組』です。
 この違いは、意外と両方の番組を試聴している人の中でもわかっていないことが多いようで、エンタの神様終了にまつわるニュースでは、この両番組を同一視して「レッドカーペットも終われば良いのに」「レッドカーペットが続いてるんだからエンタも残して!」という意見をたくさん見かけました。
 両番組の違いを良くわからない人がいる、それは全く問題ありません。
 わたしが気になったのは、この発言をした人は、
1.伊集院光のラジオを聞いている
2.エンタが嫌いと言う旨の発言を聞いている
3.伊集院光のつぶやきを読んでいる
 ここまで伊集院光について追っているにもかかわらず、「伊集院光がエンタがダメでレッドカーペットは好き」ということを全く理解していなかった、ということです。
 ラジオではその端々で、エンタとレッドカーペットに関する、伊集院光の感じ方の違いが言葉の中に現れていました。更に言ってしまうと、これらの番組の面白さの違いがわからない人が、伊集院光のラジオを聞いていて、果たして面白いのかと疑問も感じてしまいます。
 どれだけ必死に考えて、どれだけ周到に話をしていたとしても、そしてその話を受け止めている人が自分の話をいつも聞いている・応援してくれている人だとしても、話が全く伝わっていないことが往々にしてある。それを他人のやり取りの中でまざまざと見せ付けられて、わたしはこのとき少し怖くなりました。


●表の顔と裏の顔への認識
 より多くの人が引用したつぶやきを、自動的にお知らせしてくれるBOTをフォローしています。
 このBOTがさまざまな有名人のつぶやきを拾ってくるのですが、それを読んでいる間に、気になることがありました。
 Twitterに対して前向きな発言をする有名人の中には、「これだけの多くの人の意見が聞けるなんてすばらしい」とか、「実にためになる専門的知識が集まってくる」とか、そういった方向性でTwitterを褒める人がチラホラ見かけられます。だからTwitterはすごい、と。
 でも、こうしたためになる意見のやり取りは、2ちゃんねるでもずっと前から出来ていたんです。巨大匿名掲示板というツールは、有益情報の取捨選択は難しいものの、情報の坩堝と化しています。
 どちらが優れているかとか、そういった話は不毛なのでしません。
 わたしが恐ろしいと感じたのは、上記のようなTwitterの褒め方をしている人は、2ちゃんねるをどういったものだと思っているのか、その点です。
 政治家であったり経営者であったり評論家であったり芸能人であったり。そうした世間に影響力を持つ人たちが、自分に役立つとか、何かと褒めてくれるとか、そんな意見が集まってくる状況のTwitterを高く評価して、暴力的で素の意見が飛び交う2ちゃんねるを無視しているのだとしたら。そう考えると、にわかに怖くなりました。
 どっちにいるのも、どっちで書き込んでるのも、同じ人なのにね。