酒とクスリ

 僕は詩人としては中途半端というか、デキソコナイだ。何故なら、僕の書く詩は独学で独白だからだ。しかしそんな僕が歌詞を書くと、それがうまいこと化けたりもする。でもそれもやっぱり歌い手の力や演奏の力のおかげだったりして、僕はやっぱり作詞の世界でも、かなり極北というか、そこまでは言わなくても変なところにいるとは思う。
 前に取り上げた、たまの知久寿焼の言葉じゃないけれど、やっぱり闇;灯は王道じゃないし、仮に闇;灯が売れに売れてトップを飾ったとして、その百人が百人とも「これは最高だ」と思うようだったら、世の中ちょっとおかしいというか、世の中はそういうふうに出来ていない。僕の詩や歌詞を好んでくれている人は、詩歌とかをちゃんと学んだ詩人でもないし、フツーの音楽好きともちょっと違う、 百人のうちの少ない方にカテゴライズされる人たちなんだと思います。ただの遊女さんの虜の人もいると思いますが、やっぱりどこかには、一石の詩や歌詞だから好きなんだって人もいるはずだと、信じながら僕は書いています。
 僕の歌詞は、一見何を言っているか解らない意味不明のもののように見えても、実は意味が隠されていたり、その意味に意味がそもそもなかったり、やっぱり意味不明なものは意味不明でしかなかったり、場合によりけりで内容が決まっています。でも確実に言えることは、独学の独白だけど、一応考えて作っていますよってことなんですよね。
 そういうわけで、不肖僕が、詩についてほんの少しだけ語ります。一応考えて作っているので、本当に、ほんの少しだけ、語ります。詩について少しでもわかっている人ならものすごく当たり前のイロハだし、でも、詩のこととかはあまり難しく考えないで『言葉』としてしか歌詞や詩を受け止めていない人には、ちょっと面白いかもしれない話を、ちょっとだけ、します。


 僕は象徴学って奴が大好きです。「これは○○の象徴だ!」「な、なんだってー」みたいなやつのことです。独学の独白なので、こんな調子ですみません。ちゃんと象徴学を学んでいる人に平謝り。でも、言葉の中に別の意味や内容が込められているのって、なんだか面白いしロマンがあるし、ワクワクするじゃないですか。
 例えば、いまぱっと思いついたことだと、『炎』って言葉がありますよね。炎、それは燃え盛る火。火は象徴としては、人間が手にした知恵、文明、叡智の象徴なわけですよ。良く言われる比喩ですよね。それが、燃えさかっている。だから例えば、歌詞の中で「人は燃えさかる炎に包まれていた」とか出てきたとした場合、これを「人が炎で燃えてるんだなあ」と取るか、「つまりは人類は自ら手に入れた知恵をもって身を滅ぼしているということなんだなあ」と取るかで、歌詞の意味合いが大幅に変わってきますよね。
 いやもう本当に、たいしたことのない話だとは思うんですけど、でも、最近の売れ線の曲を聴くと、あんまりそういう意味を込めたりしているのって見ないから、「ひょっとするとみんな同じ聴き方しかしていないのかな?」と思って、こんな記事を書いてみたわけです。
 僕は実はかまびすしく「詩というものはだね、そもそも」みたいな話をする人はあんまり好きじゃなくて、そんなの各自の受け手の判断に任せちゃえばいいと思うんですよ。だから、国語の授業の「このとき作者はどういう思いだったのか答えよ」みたいな勉強ほどばかばかしいことはないと思うんですよ。いや、勉強は大事なんですけど、アレに正解があって、マルとかバツがつくのが納得行かない。受け取った思いを正直に生徒が書ければ、それで全部正解ですよね。
 だから僕は、僕の書いた詩や歌詞からは各自適当に意味を汲み取ったり意味がわからないけど歌ってみたりしてみて欲しいし、それでいいと思うのです。でも、物事って多角的に見れる知恵があったほうが面白くなったりするじゃないですか。だから、「人が燃えてるんだ」とも「文明に人類は滅ぼされるんだ」とも両方の意味で受け止められて、その上で取捨選択できるほうが面白いと思うんですよね。で、詩っていうものは、言わばそういうパズルゲームだと僕は思っています。
 一石楠耳が頻繁に書く『雪』って何なんだろうとか、そう言うこと考え初めてもう一度歌詞を見返してみたり曲を聴き返してみたりすると、結構面白いですよ。僕は割とやります。昔好きだったアーティストの曲を聴き返して、初めて見える意味とかがあったりして、それがすごい楽しかったりするんですよね。


 ちなみに、自分でも意味がよくわかっていないことがあったりもしますし、普遍的ではない象徴を持ち出してくることがあります。自分の歌詞で有名なのは、『どうせ緑になるまでに』。これの意味を聞かれることが多いんですが、僕はこれの意味が自分ではわかってるんですけど、説明が出来ないんですよ。「どうせ緑になるまでに、って気持ちになる一日があるじゃないですか」「は、はあ?」みたいな会話になってしまいます。
 ちなみに今回のタイトルになっている酒とクスリは、女と男の象徴です。これはなんでこうなったかというと、遊女さんがお酒のみで、僕がクスリ飲みだからです。遊女さんの家系は昔からお酒のみで、お酒が大好き。僕は昔からクスリ漬けの父と共に何かというと病院で薬を貰ってきて、部屋にクスリとかがあると(ほら、あの綾波の部屋みたいに)なんだか風景として落ち着きます。でもこれは多分普遍的象徴じゃない。
 それに、予想外のところから答えが出てくることがあって、これもたまらなく大好きです。以前に『鯨がこじらせる』という、鯨がこじらせた風邪をうつされてしまったから、ああこりゃしょうがないよね、だって鯨がこじらせた風邪なんだもん、みたいな詩を書いたことがあったんですよ。そうしたらその詩の感想に、「いい詩ですね。ところで鯨も風邪も、冬の季語なんですよ」みたいなことを言われて、びっくりしたことがあります。こういう、書いた側が予測もしていなかった意味が発生してしまったりするのも、詩の面白みだと僕は思います。
 さあみんなも僕の詩や歌詞を読み返していろいろ考えて、自分も詩を書いてみよう。たまに書く分には、結構楽しい趣味です。そして僕は、そうやっていろんな意味にも取れて、それでいて何も考えずに読んだり聴いたりしただけでも心に響いて、「意味はわからないけど、なんだか気持ちがざわめく、良い詩だな」って評価されるようなものを作りたくて、詩人や作詩家をやっていたりします。


 そして余談ですが、『火垂るの墓』の作者である野坂昭如の子供だか孫だかが、『火垂るの墓』の問題を国語教師に出されたことがあったそうです。「この時の作者の心境を答えなさい」みたいな問題。まあ適当に答えを書いたらしいんですが。
 家に帰って野坂昭如本人に「ねえねえ、今日こんな問題が出て」とか話したら、本人からその執筆時に考えていた作者の心境、つまり本当に本当の正解が、本人から聞けたそうです。
 「ああ、そのときはもう書くのが大変で大変で、早くこの仕事終わらねえかなあってばっかり思ってたよ」とかなんとか。真実なんてのはそんなもので、思わず笑っちゃう。正解を決めるのはやっぱりバカバカしいと僕は思ってしまいます。
 各自の判断で内容を理解して、それが正解で良いじゃないですか、というお話でした。もちろん、僕の詩も、果てはこの文章もね。